水銀は人類の敵なのか

2016年6月に公布された「水銀による環境汚染の防止に関する法律」で、マーキュロクロム液が2020年12月31日をもって製造禁止になることが決定した。そして国内最後のマーキュロクロム液製造事業者であった三栄製薬が2020年12月24日製造分をもって製造を終了。在庫がなくなり次第マーキュロクロム液はもう手に入らなくなる。というわけでサンプルとして買っておいた。

マーキュロクロム液はかつて広く用いられていた消毒液であるようだ。筆者は世代では無いので使ったことはないが…。その商品名は水銀(マーキュリー)に由来し、有効成分に水銀を含む。ちなみに今では水銀を含まない消毒液「マキロン」の商品名にマーキュロクロム液の名残がある。

マーキュロクロム液の主成分であるメルブロミンの構造を見ると、確かに水銀が含まれている。

.      構造式はwikipediaより引用
よりにもよって有機水銀でありギョッとするが、皮膚浸透性が低く濃度も薄いので毒性は小さい。とはいえ製造業者は原料として水銀を用いるわけであり危険である。そしてついに製造禁止となってしまったわけだ。水銀といえば毒というイメージがあるが、水銀は人類の敵なのだろうか。

水銀は古くから知られている物質であり、様々な用途に使われてきた物質だ。水銀は金を溶かすことができ、金メッキに用いることができる。東大寺の大仏はこの方法で金メッキが行われた。水銀と金を混ぜてアマルガムとし、これを塗布して加熱し水銀を蒸発させると金が残る。水銀の蒸気を吸うと中毒になることは当時すでに知られていたようで、ガスマスクも作られていたらしい。どの程度の性能があったかのは分からないが。

19世紀の探検家は水銀の錠剤を携えて旅に出たという。信じられないことに、これは塩化水銀Ⅰを使った経口摂取薬である。本当は毒であるのに、水銀は万能薬として用いられていた。人体は体に害のあるものを取り込むとそれを排出しようとするが、塩化水銀を摂取した場合も同様である。塩化水銀を飲むと大量のよだれが出る他、強力な下剤効果がある。何故そんなものを好んで飲んでいたかというと、当時は体内の悪いものを外に出せば病気が治ると信じられていたのでその状態が「効いている」と考えられていたようだ。

また、昔の帽子職人は生皮から毛を剥がすのに二硝酸水銀を用いていた。当時の帽子屋は水銀の毒性により頭髪と正気を失った。「不思議の国のアリス」に登場する狂った帽子屋は、「帽子屋のように気が狂っている(mad as a hatter)』という慣用句を元に創作されたようであるが、前述のように当時の帽子屋はしばしば水銀によって実際に気が狂っていた。

水銀による公害として水俣病が有名だ。熊本県水俣市のチッソ水俣工場では水銀を用いて酢酸や塩化ビニル等の有用な化合物を合成していたが、水銀の廃液を水俣湾に排出していた。大抵の毒性物質というのは濃度が濃いと危険であるが薄めてしまえば危険ではなくなる。しかしこの排水に含まれていたメチル水銀というものがやっかいで、生物の体内に蓄積し生物濃縮によって濃度が上がってしまう。水銀により汚染された魚介類を摂取した住民にメチル水銀中毒症が見られ、原因不明の奇病として水俣病と呼ばれるようになった。当時はマンガン、セレン、タリウム等が疑われており水銀は疑われなかったが、研究班は水銀が原因であると特定した。水俣病によって水銀の毒性が広く知られるようになった。こうして水銀は人類の敵となった。かつては温度計にも使われるぐらい身近な水銀であったが、今ではすっかり身の回りから消えた。

筆者が最もヤバいと思う水銀化合物はジメチル水銀だ。沸点は87〜97℃ぐらいで揮発性があり、わずかに蒸気を吸っただけで死ぬ。しかもこの物質は皮膚からも吸収される。なんと、手に一滴こぼしただけで死ぬ。ジメチル水銀はラテックスやPVCを通過する。ほとんどの手袋を貫通するので手袋では保護できない。実際、手袋の上に数滴こぼして死亡した事例がある。

毒と薬は表裏一体。毒性があるということは菌を殺すことができ、薄めて使えば薬に使える可能性がある。たとえば昔はカビの防除に有機水銀農薬が使われていた。イネに「いもち病菌」というカビが感染して枯れる「いもち病」対策としてフェニル酢酸水銀が効果を発揮していた実績がある。他には、船底の塗料に水銀やヒ素のような毒が使われていたこともある。これは、船底に貝やフジツボが住み着いて運航速度が落ちるのを防ぐためだ。

今ではまるで人類の敵のごとく避けられている水銀であるが、かつては様々な場所で水銀が人類の生活に役立っていた(もちろん今でも役に立っている)。有害物質を用いるということはリスクの天秤であり、毒性を考慮しても用いるメリットがあるならば用いられる。今では水銀よりも安全で有益な代替品があるので水銀が使われなくなったが、それが無かった時代には水銀に頼らざるを得ないこともあっただろう。昔の人が愚かであったと言うことなどできない。現在使われているものの中にも人体に有害なものはあり、次第により安全なものに代替されていくだろうが「最初からそれを使えばよかったじゃないか」なんてのは無茶な話だ。今人類が持っているものを最大限に有効活用し、もっと良いものは無いかと研究し続けることにより科学が発展し人類の生活が豊かになっていく。水銀が用いられていた過去も用いられなくなった現代も科学的知見を積み重ねてきた結果だ。有益な物質は自然に湧いて出てくるものではない。一体誰がその有益な物質を見つけ出し、人類の役に立つように改良してきたのか。必死に研究してきた世界中の研究者達への感謝を忘れずに生きていきたい。

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みくあす管理人プロフィール
映える化学実験を求めてMyラボで遊んでる人。毒劇物取扱者及び危険物取扱者(甲種)の資格所持者。

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